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溥儀 1935/04/03 大連〜横浜〜東京駅までお出迎え
赤坂離宮に滞在して
靖国神社への参拝や近衛師団の閲兵
奈良〜京都〜広島 1935/04/25 宮島〜
溥儀が皇帝に就任した4年後の
1937年7月7日に、北京西南の盧溝橋で起きた
盧溝橋事件を契機として日本軍と中華民国軍の間で
日中戦争(支那事変)が勃発した。その後、
中華民国内において内戦状態にあった国民党と共産党は、
日本軍に対抗するための抗日民族統一戦線である
国共合作(第二次国共合作)を構築した。
1940年には 伊勢神宮への参拝や滋賀
1967/10/17に死去した。
関連記事既に末期状態だった溥儀は治療のかいもなく
毛沢東や多くの共産党幹部らと違って
教育程度が高く、しかも文化程度の高い家柄の出身であった
周恩来は、清朝皇帝であったものの、その後不幸な運命を辿った
溥儀に対して常に同情的だった
アイシンギョロ氏 「金の覚羅一族」を表す。
関連記事満洲族 愛新覚羅氏 が建てた征服王朝
満洲語で(daicing gurun、ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)
中国語では大清(Dàqīng、ダァチン)と号した。
満洲 ... 中華人民共和国の「東北部」
現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省
と、内モンゴル自治区の東部。
ロシア連邦において「極東」と呼ばれる。
清の后妃
順位 称号 人数 主な人物
1 皇后(hūwangheo) 1人 東太后(咸豊帝の皇后)
2 皇貴妃(hūwang guifei) 1人
3 貴妃(guifei) 2人まで 西太后(咸豊帝の貴妃)
清王朝はいわゆる暗愚な皇帝が少なかった。
これは元々満洲人には
生前に後継者を指名する習慣や長子継承の習慣は無く、
部族長会議で最も優れた人物を部族長や部族長のまとめ役である
ハンとしていたこと、
政権は一族の共有財産という考えであったため
皇帝による完全独裁ではなく、かつ皇帝に対する
教育も徹底して行われていた
紫禁城 ... 世界最大の木造建築群 北京 故宮
元がつくったものを
1406年から明が改築し、
1421年に南京から北京へ都を遷してから、
清朝滅亡まで宮殿として使われた。
1644年の李自成の乱で明代の建物は焼失したが、
李自成の立てた順朝を滅ぼし北京に入城した
清朝により再建され、清朝の皇宮として
皇帝とその一族が居住するとともに政治の舞台となった。
1908年12月に、西太后が溥儀(2歳10か月)を皇帝に指名
清朝の第12代宣統帝かつ紫禁城に居を構える
最後の皇帝となった。
1911/10 辛亥革命、袁世凱の求めを受けて
1912/02 に溥儀は退位した
1924/10 馮玉祥による北京政変
1924/11/05 溥儀を初めとする皇族へ紫禁城退去通告
1931/09/22 関東軍の満洲領有計画が陸軍首脳部の反対で独立国家案へと変更
金 元 明 清
関連記事1740年以降は封禁政策を取り漢民族が移入することを禁じた。
近代の17世紀になると、ロシア帝国の南下の動きが激しくなり、
ロシアと清朝との間でこの地域をめぐる紛争が数度起きた。
1858/05/28 アイグン条約
1860/11/14 北京条約の2つの不平等条約によって、満洲地域の
黒竜江以北及びウスリー川以東のいわゆる外満洲地域は
ロシアに割譲されることとなった。
1900年 アムール川事件 清国人数千人がロシア軍によって虐殺される
1904年から勃発した日露戦争は日本の勝利に終わり、
ロマノフ王朝の満洲における鉄道・鉱山開発を始めとする権益の内、
南満洲に属するものは日本へ引き渡された。
1911年 弱体化した清朝は辛亥革命で倒された。翌年成立した
中華民国は清朝領土の継承を宣言するが、実態は各地域の
軍閥による群雄割拠の状態であり、満洲は張作霖の軍閥の支配下となる。
清朝崩壊後、満洲へは社会不安から流民となった漢民族の移入が急増する。
ロシアによる略奪と占拠
関連記事北満洲におけるロシア権益は保持されていたが、
一次大戦やロシア革命の混乱により支配力は低下し、
ロシア革命に対する干渉戦争として行われた
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シベリア出兵により、外満洲属するウラジオストクを連合軍が、
北満洲及び外満洲の大部分、さらにはバイカル湖周辺までを
日本軍が占領する事になった。
1920年には日本占領下のニコラエフスクを
赤軍パルチザンが襲撃し、
破壊と住民虐殺が行われ6,000人余りが処刑され、
日本人も700人余りが殺戮された(尼港事件)。
1920年に日本以外の連合軍撤退、
1922年に日本も撤退し占領は解除された。
ソビエト連邦は東清鉄道の経営権をロシアから継承していたが、
1928年に満洲を実効支配する張学良政権はこの
権益の武力による略奪を行おうとした。これに対し
ソ連は満洲に侵攻し中華民国軍を破り中東鉄道の権益を確保し、
権益を再確認する協定を結んだ後撤退した(中東路事件)。
1931年に日本(大日本帝国)は満洲事変を契機に
満洲全域を占領し治安を改善させて、翌
1932年に満洲国を建国した。満洲国は清朝最後の皇帝であった
愛新覚羅溥儀を元首(執政、のち皇帝)とした。
満洲国は日本の傀儡政権といわれ、この時期の満洲は
事実上日本の支配下となった。日本は南満洲鉄道や満洲重工業開発
を通じて多額の産業投資を行い、農地や荒野に工場を建設した。
結果、満洲はこの時期に急速に近代化が進んだ。
一方では満蒙開拓移民が入植する農地を確保するため、
既存の農地から地元農民を移住させる等、
元々住んでいた住民の反日感情を煽るような政策も実施した。
1945年8月、第二次世界大戦終結直前にソ連軍が満洲に侵攻、満洲国は崩壊した。
1946年、ソ連は今に至るまで外満洲を占拠している。
その後中国共産党が国共内戦に勝利し、満洲は中華人民共和国の領土となった。
日本が満洲に残した産業インフラは、経済基盤が脆弱であった
建国初期の中華人民共和国を大きく支える力となった。
1990年代以降の改革開放政策により、上海や深圳市など華東、華南の
経済特区の経済成長が著しくなる一方、満洲は古いインフラ設備により、
逆に経済的には立ち遅れた地域となっていった。
1937年7月に始まった日中戦争 華北、上海、南京
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8月より日本海軍機による首都南京への空襲(渡洋爆撃)を開始
国際社会より非難された
1937/08/02 国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等
蒋介石、ドイツ人外交官のトラウトマン
日本軍の南京入城 非戦闘員の殺害や略奪行為
12月の南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、
約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、当時の日本軍が
中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の
一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる
1947/02 南京地方院検察所「敵人罪行調査報告」では、
「敵(日本)側の欺瞞妨害など激烈にして
民心消沈し、進んで自発的に殺人の罪行を申告する者甚だ少く、
日本軍の暴行を語らないもの、否認するもの、体面を憚って
告知しないものがおり、調査は困難を極めたが、
「確定せる犠牲者は既に30万に達し、この外なおまだ確証を得ざる者
20万人を下らない」とされた
虐殺がひどかった時期は12月12日から12月21日まで
関連記事中国軍人・民間人の犠牲者は
19万人余で、
このほか遺体を慈善団体が埋葬したものが
15万体余りあり、合計
30万人余となった。
1937/12/07 国家元首、中華民国総統・蒋介石は南京から脱出
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1937/12/09 南京城内の数ケ所にへ降伏を勧告するビラを投下
南京防衛司令官へ降伏を勧告したが反応はなかった。
南京戦の元を正せば、何処に行き着くのだろう
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1946/02/03 通化事件(つうかじけん)
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中国共産党に占領されたかつての満州国通化省通化市で
中華民国政府の要請に呼応した日本人の蜂起
と、その鎮圧後に行われた中国共産党軍(八路軍)
および朝鮮人民義勇軍南満支隊(李紅光支隊、新八路軍)による
日本人及び朝鮮人に対する虐殺事件。
日本人約3000人が虐殺され、その多くが
老若男女を問わない一般市民だった。
1937年(昭和12年)12月 南京事件(なんきんじけん)
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南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件など多様な呼称がある
1937年11月30日付東京日日新聞朝刊(第1報)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E4%BA%95%E6%95%8F%E6%98%8E
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南京戦において日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、
約6週間もしくは最大で2か月以内にわたって、
当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして
南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行を行ったとされる事件。「
1924/07/01 施行 アメリカ合衆国の法律
関連記事各国からの移民の年間受け入れ上限数を、
1890年の国勢調査時にアメリカに住んでいた
各国出身者数を基準に、その2%以下にするもの
日本人移民のみを排除した法律ではない。
日本における通称:排日移民法(はいにちいみんほう)
1924年移民法(Immigration Act of 1924)、または
ジョンソン=リード法(Johnson–Reed Act)
海上を漂流していた12万人以上の難民を救助
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2015/01/08 悪趣味な風刺画
https://www.google.com/search?q=%E9%A2%A8%E5%88%BA%E7%94%BB%E3%80%80%E4%B9%B1%E5%B0%84&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox-b
移民受け入れ 欧州に学ぶな / みやけ・くにひこ
https://ironna.jp/article/1020
「フランス生まれの」イスラム過激主義者が
風刺週刊紙本社に乱入、自動小銃を乱射して記者や警官十数人を殺害した
英仏は旧植民地から多くのイスラム教徒移民を受け入れ、
現在国内のムスリム人口は全体の5〜8%に達するという。
イギリスが移民の宗教・文化を尊重するのに対し、
フランスは世俗主義の尊重を移民に求める
などスタイルの違いはあるが、
結局は両国とも新移民の同化に失敗
2015/10/20 「われわれ欧州人は、欧州大陸に住む
ほぼ全ての人がかつて難民であった
ことを忘れるべきではない」
ジャン=クロード・ユンカー欧州委員会委員長
http://eumag.jp/behind/d1015/
移民・難民問題 2010年〜2012年、「アラブの春」以降急増
難民の半数以上が25 歳以下の若年層
度量は無限大だが...
2017/02/16 欧州10カ国で移民に「ノー」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/021500575/
欧州に流入する難民の数が急増している。
アラブ・アフリカ諸国での紛争や迫害を逃れ、
平和で安定した場所を求めて国外に脱出した人々だ。
欧州連合(EU)では人権擁護の基本理念の下、
移民・難民問題への対応を迅速化するため、
加盟国間だけでなく対外的にも
各国との協力関係を強化している。
伊太利いっぱいいっぱい。欧州域内で合意
関連記事https://www.cnn.co.jp/world/35121707.html
ドナルド・トゥスク大統領(欧州理事会常任議長)
28日開催された首脳会議での議論は
10時間近くにおよび、翌 29日未明まで続いた。
http://www.bbc.com/japanese/44653024
執筆当時は そういう意識だった という貴重な記録
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1867年生まれのワイルダーが執筆した
自伝的な小説「大草原の小さな家」のシリーズは、
1932年から43年にかけて出版された。
作品はテレビドラマ化され、
1974年から83年にかけて放映された。
2015/10/20 エルサレムの世界シオニスト機構で
関連記事ネタニヤフ首相は、
ナチス・ドイツのヒットラー総統は
ユダヤ人を欧州から追放しようとしていただけで、
民族虐殺をヒットラーに提唱したのは当時の
エルサレムのイスラム教宗教指導者
ハジ・アミン・アル・フセイニ師だった
と発言。
「ドイツがユダヤ人を追放すれば
みんな(パレスチナに)来てしまう」と進言され
ヒットラーが「ではどうすれば?」と尋ねたところ
フセイニ師が「焼けばいい」と答えたのが、ホロコーストのきっかけ
となったと話した。
パレスチナ解放機構(PLO)のエレカト事務総長は、
「イスラエル政府の指導者が、
隣人をあまりに憎むあまり、
ユダヤ人600万人を殺した史上最大の極悪人さえ
免罪してもかまわないという。
歴史の上で悲しい日だ」
と声明を発表した。
首相への反応は..「多方面から馬鹿にされた」
人選ミスこわ
2015/10/21 メルケル首相は、毎年恒例の首相会談のために
ベルリンを訪れたネタニヤフ首相と会談後、共同会見し、
「ショーア」(ホロコースト)がナチス・ドイツによるものだったという認識は
今後も、学校などを通じて次の世代に引き継いでいかなくてはならない
と述べ、「この問題について歴史認識を変える必要性を感じていない。
われわれはドイツとして『ショーア』に対する
【自分たちの責任】を受け入れている」と言明した。
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