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備前守行家の子孫が堀内氏を名乗ったという
新宮社地を領し、南北朝期は
熊野水軍として南朝方に属し、室町期には
畠山氏の被官となる。熊野は背後の紀伊山地から良質の
船材を産し、天然の良港にも恵まれて早くから
水軍が発達し、南北朝期より
瀬戸内海に進出した
戦国時代、氏虎は畠山氏の衰退に乗じて熊野地方に勢力を伸張。
伊勢国司北畠氏の 被官となって熊野を安堵されたとする説も。
永禄の頃には近隣の土豪有馬氏らを併呑して熊野方面に進出。
その子(弟?)氏善、はじめ木本浦 有馬氏の養子となっていたが、
氏虎が死んだあと嗣子がなく、氏善は新宮に帰って堀内氏を継いだ
三木浦の 三鬼氏を大和北山に遂い、
天正年中には
毛利氏らからも誘われたが、
信長方に属して、紀伊のうちに二万石を与えられた。
天正十年(1582)、
本能寺の変後の山崎の合戦で軍功があり、七千石を加増されたが、
天険を頼んで秀吉に属さず自立、 同十一年、
豊臣秀吉の紀州征伐にも新宮城に拠って抵抗した。
しかし、ついに氏善は帰降して、秀吉から本領を 安堵された。
同十八年の小田原攻めにも従軍、文禄の役では
水軍として出動、竹島の先陣争いなどに功があった。
慶長五年(1600)の関ヶ原の役には
石田三成の西軍に与し、伊勢口の守りにつき、鳥羽城主の岳父
九鬼嘉隆と協力して 新宮城に籠城したが、関ヶ原の敗報を聞いて逐電。
家康より領地は没収された。
しかし神職の故赦免されて肥後熊本の
加藤清正に預けられ、
元和元年(あるいは四年)に同地で没したと伝えられている。
堀内氏没落後、氏善の嫡男若狭守行朝(氏弘)は
浅野紀伊守に仕えたが、
慶長十九年(1614)大坂冬の陣が 起こると
弟主膳(氏時)・主水(氏久)とともに
大坂方の招きの応じて大坂城に入った。
若狭守は旧臣、 紀伊・大和の浪人衆を率いて
大和口を固め、翌年の夏の陣で
豊臣家が敗れると弟ら一族とともに大坂城から退去した。
退去のとき千姫一行と遭遇した若狭守は、一行を護衛して
家康の本陣に送り届けるという奇功をあげた。
戦後、 罪を許された若狭守は
片桐氏の客分となり、弟の
主膳・主水らは旗本に取り立てられたという。
一方、氏善の庶子 右衛門兵衛は
藤堂大学頭の娘婿であった関係で
藤堂家に仕えて知行二千石(千五百石とも)を賜り、子孫は
藤堂藩士として続いたという。
五三の桐(清和源氏行家流/熊野別当後裔?)
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