10/04(fri)01:00わらし ) あらての form SPAM っす …といえば
04/03(mon)14:08わらし ) 青山浅河町 ... 上野山(台東区上野公園)は幕府が開かれたころは津藩 藤堂家の屋敷 関連記事https://www.google.co.jp/search?tbm=bks&hl=ja&q=%E6%B5%85%E6%B2%B3%E7%94%BA%E3%80%80%E5%82%98
1570年 高虎は、14才の時に「姉川の戦い」の戦いに参加しています。これは
浅井長政と朝倉義景の連合軍と、
織田信長と徳川家康の連合軍の間で行われた大規模な決戦でした。
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歴代主君
http://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
浅井長政 - 高虎が始めに仕えた主君。織田信長との同盟を破棄して武田信玄と連携して信長を倒そうとするが、直前になって信玄が病死したため、織田軍の全戦力と戦うことになり、自滅。
阿閉貞征 - 長政が自滅した後、2番目に仕えた主君。後に本能寺の変で明智光秀に加担して豊臣秀吉を打ち倒そうとするが、光秀が敗北したため、その結果一族全員粛清。
磯野員昌 - 3番目に仕えた主君で高虎が仕えていた浅井長政の家臣。長政が信長に敗北したため、信長にひれ伏してうまいこと取り入れられるが、後に信長の機嫌を損ねて所領を没収され追放。
津田信澄 - 4番目に仕えた(略)。信長にとても気に入られていたが、本能寺の変で明智光秀の内通を疑われて信長の家臣の手にかかり殺害。
高虎が出て行った後、信澄は本能寺の変のとばっちりで
殺されてしまうので、ナイス回避といったところ
1576年になると、高虎は信長の重臣であった羽柴秀吉の弟
豊臣秀長 - に仕え。
この時の身分は300石で、10名程度の兵を指揮する身分から
幾つもの武勲を上げて一万石の大名になる。
1582年になると、信長が家臣の明智光秀に本能寺で討たれ、
秀吉の立場が大きく変わっていくことになります。
秀吉は信長に代わって天下人になること目指し始め、信長の三男である
織田信孝や、重臣の柴田勝家らと争うようになります。
1591年に良い主君だった秀長が51才 城内で病死。
相次いで主君が死去したことで、高虎は武将として働く気力がなくなってしまったようで、
大名の身分を捨てて【出家】
秀吉は高虎の才能を惜しみ、家臣の生駒親正に命じて豊臣家に復帰するようにと説得させます。
「お前みたいな優秀なヤツが坊主になるなんて認めない!
宇和島に領地をやるから帰って来い!!」
と半ば強引に復帰させられてしまいます。
高虎はこれに応じて再び武将となり、5万石を加増され、伊予(愛媛県)板島7万石の大名となります。
https://app.k-server.info/history/toudou_takatora/4/
豊臣秀保 - 6番目(略)。もっとも若い主君だったが、謎の変死を遂げる。
http://bushoojapan.com/tomorrow/2013/10/04/6956
「藤堂高虎家訓200箇条」なんて読むのも疲れる……もとい、ありがたい教えを残しています。
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