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03/20(sun)09:14わらし ) 吉田浜 今出る   関連記事
あがってみたいなガントリークレーン 26,433円/30分
http://www.matsuyama-port.com/rate/index.html
ちょいと借りられるかな?

定期船を眺めにゆくのもヨイかも
http://www.matsuyama-port.com/service/index.html
釜山、台湾、上海、神戸と

関係連絡先
TEL:089-952-2646 愛媛オーシャン・ライン株式会社 松山市大可賀3丁目150-1
TEL:089-951-2118 山九株式会社 四国支店 松山市三津2丁目4-23
TEL:089-952-2341 日本通運株式会社 松山支店三津浜事業所 松山市海岸通1455-13
TEL:089-951-2171 伊予商運株式会社 松山市大可賀3丁目150-1
TEL:089-953-3335 松山コンテナーサービス株式会社 松山市大可賀3丁目1464

03/20(sun)09:25わらし ) すばらしい。>三津浜花火大会 穴場情報 地元民も知らない 28スポット大公開   関連記事
http://arata-media.com/spot/hanabi/


北吉田防波堤 ... これは困難かも
松山空港南公園 ... ちょっとした丘の上から
北吉田防波堤手前 ... 路上の車で動けなくなった覚えがあります。
西クリーンセンター前 ... 低い花火は無理そう
やっぱり自転車がよいかもしれません。
中途半端に見えるファミリーマート閉店しちゃいましたね。
アイテム駐車場、コーナン、ツタヤと
早く行けはどこも止められますが...
車を止めると、やっぱり帰る時に死ぬほどモメル気がします。

03/20(sun)09:26わらし ) 吉田挿桃 - 郷土の歴史と物語 伊予路の文化   関連記事
http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/kakure/kakure2.htm
南吉田町吉田浜に桃の木がたくさんあったという。
浜は南北三kmにわたる大砂丘で松原が美しかった。
挿桃については、この辺りの堤防に桃を挿しておくとすぐ芽が出て、
花がつくという説と、もう一つ説がある。
宝暦年間(一七五一〜一七六三)に高潮があり、そのため桃畑が砂でうずまり、
枝が地上に出て桃を挿したように見えたという。
おそらく後の説に従うべきと考えられるが戦時中に砂丘を全部うめたてこのあたりは、
松山航空隊ができて、兵舎や格納庫があった。
今では昔と様子が変ってしまい、大阪ソーダ、帝人松山工場や
松山空港の一部となっている。
砂丘のなごりは今の桃山保育園の構内の小さい丘に挿桃神社という
可愛い祠が一つ残っているところがそれである。
「挿桃大神守護」とお礼に書いてある。
またこのあたりは藩主の御鷹場であったし景色もよく、
海岸ではキサゴ(しゃご貝)がたくさんとれる。
伊予節の一節『よしだ挿桃』の砂丘がこの地に残っているのは幸せである。

03/20(sun)09:43わらし ) 「最後の特攻隊」の真相: 消された偵察機「彩雲」 - Google ブック検索結果   関連記事
https://books.google.co.jp/books?isbn=4059101583
松山海軍航空隊と書かれたいかめしい隊門からかなり離れたところに
松山海軍航空基地と読めるもう一つの隊門があった。

03/20(sun)09:44わらし ) 「坊っちゃん」上陸の三津浜港   関連記事
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=1&P_SNO=5&P_FLG1=2&P_FLG2=3&P_FLG3=1&P_FLG4=1
「えひめの記憶」 - [『ふるさと愛媛学』調査報告書]
臨海都市圏の生活文化(平成7年度)
三津浜の風物詩 港と朝市

松山市には、堀江・和気(わけ)・高浜・三津浜・吉田浜・今出(いまず)の諸港がある。
...
明治元年(1868年)の藩政改革に伴い、三津小船頭以下の御船手(おふなて)一斉解雇。藩の水軍が解消される。
明治中期まで三津浜町民は、三津浜港が松山の表玄関で、
高浜は避難補助港であると考えていただけにそのショックは大きかった。
魚専用の坊っちゃん列車で目的地へ運んでいました。

03/20(sun)09:46わらし ) 漕ぎいでな *   関連記事
熟田津に船乗りせんと月待てば、潮もかないぬ今はこぎいでな

熟田津論争
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou53/koga532.html

03/20(sun)09:53わらし ) 福岡じゃねぇか? 佐賀じゃねぇか?   関連記事
03/20(sun)10:03わらし ) 白村江の戦い   関連記事
http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/25565766.html
百済からの援軍要請に応え、朝鮮半島へ出兵する途次、四国から九州へ向かって船出する際の作

田津が一箇所だけでなく複数
陸に待機する10000人の軍勢を乗船させることを仮定してみたまえ。
熟田津とは「熟+田津」であったとの思いが強まってくる。つまり田津とは川あるいは運河沿いに設けられた、田圃中の舟着場の総称?

大型船に乗り終えてもすぐに出航するのではない。

熟田津は丁度航路の中間点にあたり、九州方面へは常に「下げ潮」を利用して航行するのである。

661年(斉明七年)3月15日(満月)の夜であったと推定している。

額田王達の「月出(=乗船に必要な晴天)」の願望(祈り)が込められている(存在した)


http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nukata.html
愛媛県松山市和気町・堀江町あたりとする説などがある。


【鑑賞】暗い海路に月の光が射し、潮が満ちてくる情景を前に、困難な航路へと旅立ってゆく人々を鼓舞し勇気づける、作者の凜々しい姿を想い浮かべずにはいられない。「あかねさす」の歌と共に、額田王の代表的名作であるばかりでなく、初期万葉のシンボル的な傑作。


この歌が詠まれたのは、白村江の戦いと呼ばれる戦いの時期です。
http://manapedia.jp/text/2136
この戦いは朝鮮半島で当時勢力を持っていた国々の争いです。高句麗、百済、新羅、任那の4カ国がありました。日本は任那を通して朝鮮半島で一定の力をもっていたのですが、この戦いのために日本からわざわざ出兵をしました。熟田津でちょっと旅の疲れをいやして、「さぁ出発だ!」というときに詠まれたのがこの歌です。

正確にどこなのかはわかっていませんが、愛媛県の道後温泉あたりなのではないかと言われています。

03/20(sun)10:04わらし ) 額田王 ぬかたのおおきみ 鏡王の娘で、額田女王とも書く。   関連記事
大海人皇子(おおあまのおうじ:のちの天武天皇)にめされて、
十市皇女(とおちのひめみこ)を生み、のちに天智天皇の寵愛をうけた。

あら女性でしたか 百済まで?戦に?

03/20(sun)10:08わらし ) 熱田津という港は何処であるか *   関連記事
或いは道後まで海が来ていたともいうが

景浦雅桃翁は御幸又は味酒が港であったといい、
郷土史家の松本常太郎翁は古三津であるといい、
愛大の武智教授は堀江の附近であるといっている。




























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